かもめ島と大タコ伝説

かもめ島と大タコ伝説

江差が、上ノ国に変わって北海道経済の中心地になっていたのも、ここが天然の良港であったからです。上から見るとカモメが羽を広げたように見える鴎島が、沖からの強風や荒波を遮り、船に安らぎの場を与えたのでした。
鴎島の海抜は平均20メートル。周囲は2.6キロメートル。今は防波堤で陸地とつながっていますが、昔は、船を使って島へ渡っていました。また島の手前にはとっくりを逆さにしたような瓶子岩があり、島上にはおよそ380年以上も前に建てられたという厳島神社、義経伝説の残る馬岩や江差追分記念碑があります。しかし、鴎島の主は、馬やカモメではなく、巨大なタコであると信じられているようです。
昔、乙部の鮪岬に大タコが住んでいました。ある晴れた日、大木に大タコが二本の足を巻き付け日向ぼっこをしていました。それを見た大蛇が「タコのくせに陸に上がって昼寝をするとはけしからん」と直ちに戦いを挑んだのです。
はじめタコは二本足で相手をしていましたが、形勢が悪くなると、さらに二本の足を出しました。それでも勝負はつきません。タコはさらに足を増やしました。大蛇は尾を木に巻き付け、猛烈にタコの足にかみつきました。追いつめられたタコは得意の墨を吐いて、姿を隠しては戦い、ついに大蛇を征服しました。その後、この大タコは江差に移りました。
それからまもなく、江差では禅宗正覚院に大坂から釣り鐘がもたらされようとしていました。釣り鐘を積んだ弁財船が、いよいよ鴎島から港に付こうとしたときに、どうしても船が動かなくなってしまいました。
やがて、海中からぼこぼこと不気味な音が聞こえ、海水が小山のように盛り上がったかと思うと、見たことも、聞いたこともない、とてつもなく大きなタコが現れ、だんだん船の上に上がってきました。驚きのあまり声もなく突っ立ったままの水夫達を後目に、タコは積んでいた釣り鐘に足を巻き、せっかく苦心して運んできた釣り鐘を海中に持ち去ってしまいました。
一方、山の上の正覚では、鐘の到着を待ちわびる町の人が大勢集まっていました。いっこうに釣り鐘到着の知らせがないので、港に降りてみると、港中ひっくり返すような大騒ぎになっています。訳を知った町衆は、人望ある神官に依頼して、釣り鐘を奪った理由を問い質すことにしました。タコの現れた場所に船が着くと神官は、早速祈祷を始めました。すると顔の直径が四尺もあろうかという大タコが顔を出しました。

「万物の霊長たる人間の物を掠め取るとは何事か。その訳を聞こう」と問いつめる神官に、「私はこの北の鮪岬に住んでいた雌タコですが、ついこの間、上に住む大蛇と喧嘩して勝ったご褒美にこの鴎島に嫁に来た者ですが、新参者なので頭の帽子もどこへ隠したらよいかわかりません。どうしようかと思案しているところに、釣り鐘を積んだ船が通ったので、これ幸い、この鐘に帽子を入れておくと他の魚に取られる恐れがないと思い、つい取ってしまいました。」
話を聞き終わった神官は、無理に鐘を取り戻して大タコを怒らせては後のたたりが恐ろしいと、一緒に乗り込んできた和尚や町衆と相談し、釣り鐘をくれてやることにしました。
それからというもの鴎島では、ことのほかタコの豊漁が続いたそうです。この大タコは今なお鴎島の主として君臨し、正覚院の釣り鐘をかぶったまま鴎島を七巻きすることがあり、海の凪いだ日には、釣り鐘の龍頭が見えるそうです。

鴎島は伝説の島で、この大タコ伝説の他にも次のような伝説が伝えられています。

鴎島の厳島神社は昔、弁天社と呼ばれ、明治元年、厳島神社に改称されたものです。この創立はおそらく享保年間(1716年~1736年)であろうとされています。
この神は「やらずの明神」と呼ばれていました。それはこの明神様が非常に銭を惜しんでいたからです。ニシン漁などで蝦夷地へ出稼ぎに来てどんなに金銭を蓄えても、必ずこの明神の地に降りて金銭を使い果たさなければ故郷に帰ることが許されなかったといいます。そして、もしもこの明神の命に逆らうものならば、帰路は必ずといっていいほど、災いがあると言い伝えられています。

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