「降福孔夷」騒動

姥神大神宮の正面に「隆民殿」という大きな額があります。これはもともと「降福孔夷」という額で、9代藩主道広が奉献したものです。ところが、寛政12年(1800年)、額は幕府に没収され、江戸に持ち去られたのです。
18世紀末。ロシアの東進がカムチャッカ半島に及び、ここから温かい海を求めて盛んに南下するようになりました。北海道周辺域に出没する外国人の影。当時の日本人はこれを赤蝦夷と呼び恐れました。対して幕府も北海道やサハリンに幾度も探検隊を派遣し、北方の調査を命じました。そんな探検隊の中に、最上徳内が率いる探検隊がありました。彼は、天明5年(1785年)に現在の北方領土を、寛政4年(1792年)にサハリン南部を探検しています。そして寛政11年(1799年)、西蝦夷地の巡視に来島した徳内は、姥神大神宮で「降福孔夷」と書いた額を見つけ、飛び上がらんばかりに驚いたのでした。
「隆民殿」第十三世松前道廣公拝領の額徳内は額の文字を「降福紅夷」と読んだのです。それでは「紅夷(赤蝦夷)に福を降ろす」と読めてしまいます。もともと松前藩は北方でのロシア人の進出を幕府に秘密にしていました。そうしたことから松前藩に不信感のあった徳内は、このことを幕府に報告。翌年、幕府は25人にも上る調査団を派遣し、姥神大神宮のご神体を調べ、額を調査のため持ち帰りました。突然の事態に、城内はてんやわんやの大騒ぎになったといいます。
江戸に持ち帰られた額は、当時の大学者林大学頭信篤による解読の結果、もともと読経の一節「福を降ろすことは孔だ夷なり」という意味が書かれていたと鑑定され、松前藩は取りつぶしの危機から救われました。崩し文字のため「孔」が「紅」と読めてしまったことから起こった誤解でした。それでも騒動の後、前藩主道広は額を現在の「降民殿」に取り替えてしまったのでした。

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