姥神大神宮渡御祭 その歴史と成り立ち

姥神大神宮の由来

姥神大神宮の創立は不詳ながら昔から伝わる一つの伝説に始まります。
ある日、どこからともなく一人の姥(うば=おばあさん)が江差へやって来て、津花の地に草庵を結びました。当時、蝦夷地は冷涼で作物もあまりとれず、餓死する者も出る状況だったと云われています。そんな中で姥は、天変地異を事前に知らせることで人々から神様のように敬われ、折居様と呼ばれるようになりました。とある夜、神島(カムイシリ=今の鴎島)から虹のような光に草庵が照らされました。不思議に思い、尋ねてみると、白髪の翁(おきな=おじいさん)が岩の上に座り「汝の来たれるを待てり。機、正に熟せリ」と言って、小瓶を与え「この瓶中に水あり、之(これ)を海中に点ずれば鯡(ニシン)といふ小魚群来するに至るべし、之を以(もっ)て島人の衣食住の資(たすけ)とすべし。吾汝と共に島人を永く護らん」と告げて焚火と共に消えました。
折居様が教えられたように、瓶子の水を海中に注ぐと、海水が白色に変わりニシンが群来して人々を飢えと寒さから救ったと云われています。やがてこの折居様も草庵に五柱の御神像(天照大御神、天児屋根大神、住吉三柱大神)を残したまま姿を消しますが、人々は姥にちなみ「姥が神」として祠を建てて祀り、後に初代藤原永武がこれに奉仕しました。その後、本道にはニシンが群来するようになり、「白金寄する」地として年々本州より人々が渡って江差は経済の中心となり、姥神大神宮は北海開祖神とも陸奥国松前一の宮とも云われるようになりました。正保元年(1644年)には津花の地から現在地に遷宮し、渡御祭はこの頃から行われたと考えられています。文化14年(1817年)には朝廷にて119代光格天皇御下、上卿唐橋大納言列座の下、10代相模守従五位下大神主藤枝政光が召されて、正一位の位記と大神宮号をすすめられました。また神職は代々豊後守、相模守に任ぜられ従五位下に叙せられています。

江差を彩る祭のあゆみ 姥神大神宮祭

8月9日宵宮・10日~11日神輿渡御、町内13台の山車(ヤマ)が供奉巡行する姥神大神宮の例祭が、絢爛豪華に繰りひろげられる。
姥神大神宮は陸奥国松前一の宮と云われ、その創立は古く、一説には文安4年(1447年)と伝説に語られているが、詳らかでない。姥神町南端、津花岬の一角に「折居の御井戸」と称する遺跡がある。
折居姥(於隣)の屋敷跡・姥神社の古社地と云われ、神域として信仰されている。
姥神大神宮の現社地は、正保元年(1644年)岩崎の麓に遷座、安永三年(1774年)拝殿が造営されて今日に至っている。この史実から地域が姥神町と名付けられた。
姥神大神宮の祭礼は、神輿の渡御に町内の山車(ヤマ)が供奉し、豊作・豊漁・無病息災を祈念して巡行する渡御祭である。この例祭の形態は何時からであるか。文化13年(1816年)の『社地伝記控』(藤枝家文書)に「当地姥神弁天両社祭礼、8月14日神輿洗・15日領主代参・15~16日神輿渡御」とあるが、その創始は古く詳らかでない。
神輿の渡御に供奉する現在の山車(ヤマ)の中で一番古いのは、愛宕町の道指定有形民俗文化財の神功山で、その人形は宝暦4年(1754年)、水引幕は宝暦11年京都の松尾七郎兵衛が納めたもので、宝暦年代には渡御祭の形態が出来ていたことが窺える。渡御行列の模様は元治元年(1864年)8月『両社御祭礼行列並宿割控』(関川家文書)に克明ではあるが、千人を超える大仰な人数の行装、荘厳・厳粛なさまが偲ばれる。

山車(ヤマ)は依代

江差で神輿に供奉する曳き山車を「ヤマ」と云うのは、京都祇園祭の系統をひいているからで、祇園祭の山鉾と同じように、青木や帆柱を依代として神が降臨する神域という意をこめてヤマと呼ぶ。それは江戸系統の祭りで、絡繰や歌舞伎、踊りなどを演じて移動する屋台を「ダシ」と呼ぶのと区別している。
江差では屋体の上に一本の青木(トドマツ)を立て、神の依代とする。この青木を立てることを「ヤマを立てる」(船山では帆柱)と云う。三頭立ての鹿子舞で青木を立てるが、ヤマと呼び、神の依代を表徴するのと同じである。明治30年代に撮影された聖武山(現橋本町)の写真を見ると、ヤマのシンボルである青木が高く聳え、土蔵2階建ての店舗を凌駕している。これが本来ヤマの様相なのである。ところが大正4年(1915年)電気会社が創業し、道路に電柱が立ち、電線が張りめぐらされて、高い山車(ヤマ)が通れなくなり、山車(ヤマ)が低く変貌せざるを余儀なくされた。さらに昨今信仰面での変革もあり、ヤマの守護神として添えられた人形が、ヤマの主体と主客転倒、形式化され「伝統だからヤマを立てる」と云うようになった。
さて祭礼行事のなかで宵宮は、ヤマが入魂する大切な神事で、神が降臨し移動神座となるのである。

    神
天降る ↓ ↑ 天駈る
    山車

山車(ヤマ)の起源

姥神大神宮の祭りは「姥神宮祭礼之議是迄弁天宮両社ニ付隔年8月15日・16日両日祭礼修行仕」(藤枝家文書『元治元年七月姥神宮夜宮例祭日記』)とあるように、文久2年(1862年)まで、姥神弁天両社祭りとして隔年修行して来た。明年から姥神神社は8月15日・16日、弁天社は5月26、27日に分離して修行することになったが、前同『例祭日記』によると、姥神神社の例祭が修行されなかったので、本年(元治元年)から修行するように、氏子一同の相談がまとまり江差奉行の許可を得て、分離後最初の姥神祭りを修行した。この年の渡御行列は(元治元年八月関川家文書)千人を超える大行列であった。この年姥神祭の神輿渡御に供奉した山車(ヤマ)は、7台で現在は13台と増加しているが、変わりないのは神功山・蛭子山・松寶丸の三台だけである。
各町内の山車(ヤマ)が今日の形態になるまでには、紆余曲折はあるが、その創始は町の開発の推移と期を一にするようである。
元治元年『姥神宮例祭』日記を見ると、この年までの祭礼は、江差市中大手商人の無尽「常盤講」仲間の醵金で修行されて来たが、慶応元年から各町内の供物によって修行する様になった。これまでの山車(ヤマ)は、町内居住の大手商人が寄進し、祭礼に供奉する経費・直会までも大手商人(親方)出費で、町内の人々は親方の揃いの印入半纏でヤマに奉賛した。この状態から慶応元年ヤマは実質的に町内の所有となり、その保存運営は各町内の住民の手に委ねられることになった。山車(ヤマ)の起源には幾つかのパターンがある。今日各町内が保存伝承する絢爛豪華な山車(ヤマ)には、それぞれ変遷があり、はじめは鯡取り舟(ホッチ)に車を付け急造の舟山としたり、張りぼて人形を台にのせたりして、臨時急造のヤマから始まるのが多い。人形や付属品を入手した年代はそのヤマの創始ではなく、それに至るには臨時急造の時代があるのであり、結局創始年代は詳らかに出来ないのである。

山車かざり

屋体の上に青木(トドマツ)を立て森・深山をイメージして神座を設え、その前面に人形を飾る。ヤマに人形を配するのは、ヤマの守護・警固・化身ということで、ヤマの本質からは青木が主であり、人形は従である。各町内の象徴で、住民に神格化されている。
山車(ヤマ)飾りの伝統として、ヤマの背後に「綿の御旗」と称して、女の丸帯を幟に仕立てて掲げる。これは多産信仰に発する豊作豊漁の願いをこめての信仰で、素朴な土俗信仰の名残である。神功山の綿の御旗は、年代物(伝蜀江綿)の逸品(道指定文化財)である。
ヤマ・御幣・人形・錦の御旗・山額は、山飾りの主体であるが、さらに特注の紋章を染めぬいた色とりどりの縮緬の幟・五色の吹き流しを掲げ、外廻りは提灯で飾り、更に正面をのぞく三面は豪華な水引幕で飾られる。この13台のヤマが神輿に供奉して巡行するさまは、吹き流し、錦の御旗が翻り、朱塗りの屋体、金色に輝く金具。祇園囃子をくむ祭囃子に乗って町並を行く、まさに一幅の絵巻物である。
各町内の山人形の一番ポピュラーなのは武者人形で、武田信玄・楠正成・大石良雄・水戸光國・加藤清正・伊達正宗、神話系の瓊瓊杵尊・神武天皇・蛭子、能面系の神功皇后、文楽系の日本武尊、歌舞伎系の武蔵坊弁慶の十二体に弁財型御座船松寶丸と、多岐である。
今日では見られなくなったが、大正の末年まで、山車(ヤマ)行列のあとに、町内の子供が演出するねり児が供奉した。一般に古い商家では家伝来の憧れの武将の子供用甲冑武具を所持保存しており、5才から10才位までの男児、主として嫡子が、家伝の武具に身をかため、介添として家印の半纏を着て床几持等、二人の供が付き添って、行列に供奉したものである。

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