起源
祭りの起源
このお祭りは今からおよそ370年前、江差の人々がニシンの大漁を神に報告し感謝したのが始まりで、江差町内で現存している一番古い山車の人形と水引幕は神功山(じんぐうやま)のもので、宝暦年間(1754~1762)京都の人形問屋が納めたもの。
神功山の人形を基に逆算すると約250年前となりますが、祭りの起源とは直接結びつくものではありません。
こうした贅を尽くした逸品を所持するまでには、それまでにも相当の年月を重ねていただろうと想像できる。
神輿
姥神大神宮の渡御祭は、神輿の渡御に山車(やま)が供奉する形式です。神輿は4基で、その中で最も古い神輿は元禄7年(1694年)に大阪で制作されている。
渡御祭の神輿行列で、2日目、3日目の巡行を終え大神宮に戻った際、神輿を一基づつ順次拝殿に納める「宿(しゅく)入れ」は圧巻です。
祭り色へ染まる
他で生まれて江差に居を構えた人の中には、どうしても「見る側」へ回る方も多い。江差で生まれた子供たちは立派に祭りに染まる。たぶん、彼らにとって祭りは3日間ではなく、笛、太鼓の練習を開始する祭り前1ヶ月と、夏休みが始まるまでの半月も加わるからだろう。
祭りの季節(1)
7月も中頃になると、どこからともなく風に乗って笛や太鼓の音が聞こえる。それぞれの町内会が用意してくれた練習場所で、単パンTシャツ姿の小中学生が、自分たちの山車に伝えられている囃子の練習に精をだす。
昼間はもちろん、夕食を終えた後も練習は続き、年上の子の姿を見て囃子を身につけて行く。そこには何となく懐かしい子供社会を見ることができる。自宅へ帰っても、忘れまいと座布団を太鼓がわりに練習を繰り返す。 祭り囃子(笛・太鼓)の練習 。
祭りの季節(2)
宵宮の4~5日前になると、各町内の空き地に鉄骨とビニールシート張りの “宿”が用意され、車庫から引き出された山車が据えられる。
子供たちは囃子の練習の合間をぬって1年ぶりに出された山車を、いたわるように丹念に磨き続け本番を待つ。
既に祭り気分が高揚している子供に加え、このころから大人も町中も、祭り色に染まりだす。
子供
江差の幼児にとって祭りの舞台は山車の上。屋形の縁りの欄干にもたれかかって、時には笛、太鼓の音を子守歌がわりに。長い町内巡行に引き回されているうちに、江差で育った子供たちは自然に「祭り」が身にしみてしまう。
巡行
宵宮は、姥神大神宮での「魂入れ」と、それぞれ自分の町内の巡行である。山車は町内の路地をくまなく巡って「挨拶回り」をする。待ちに待ったお祭りがきた綱を引く子供たちの掛け声も太鼓も笛も江差の町を幸福な祭り気分に染めて行く。
本祭は神輿のお供をする形で、1日目は波打ち際に開けた古い由緒ある町並みが残る「下町」を、2日目は繁華街を中心とした「上町」を巡行する。
両日とも夕方までは、格調高い囃子の調べと子供たちの元気な掛け声が続き、そして夜。にわかに祭りの様相が変わる。漆塗りと、飾り金具に身を包んだ山車は、燃え立って輝く電飾によりその豪華さを増し、また、引き手はぐんと若者たちが増え、時間とともに山車の動きは激しさをます。
見せ場(1)
8月10日 午後8時 古くから商店街を形成していた愛宕町の旧国道。夜を迎え、眩しいばかりの電飾を施した13台の山車が連なり、祭囃子を続ける。
通りは山車の引き手と見物客とが道路いっぱいに溢れ、光と音、人の波の洪水。山車は、勢いづいた若者に引かれながら順に神社を目指す。
宿入れ
8月10日 午後9時30分 下町の巡行を終えた3基の神輿の『神輿の宿(しゅく)入れ』が始まる。
まず篠竹を束ねた長いほうき状のタイマツに火を付けた8人が4人づつ向かい合わせに並び、鳥居から拝殿まで敷石の参道を火で掃き浄めるようになぞりながら駆け登る。
三基の神輿は一基づつ順次拝殿に納まるが、まるでそれを導く様である。神輿は白衣の若者に担がれて、一気に参道を駆け、揺すり上げながら拝殿前の石段を駆け登るが、一度では神意の嘉納するところとならず、一基目の神輿は七度目に見事に宿入れし拝殿内で喜びに湧く神輿を揉み上げる。
二基目は五度目、三基目は三度目で納まる。飛び散る火の粉と担ぎ手が飛ばす汗。この間、見物人は息を詰めて見守る。三基目の神輿が拝殿に入ると周囲から、どっと拍手が沸き拝殿内では歓喜の揉み上げが続く。
見せ場(2)
8月11日 午後9時30分
渡御祭のクライマックスは、新地町の交差点から賢光稲荷社境内前で迎える。一帯は見物客で溢れる。歩道は人ごみをかきわけても、なかなか先へ進めない。交通指導の警官が「車道に降りないでください」と必死に制止している。
祭り半纏の若者たちが路上を小走りに駆け抜けて行く。先頭の山車から順に、所定の位置で山車を立てはじめる。舵取りの腕の見せどころ。
舗道側に後部を押しつけ、見物客側へ正面を向ける。
一台、そしてまた一台と揃うにしたがって、通りの数百メートルは燃え盛るような光の渦と各山車の囃子、掛け声で埋まり、沸き立つような歓喜と興奮の熱気が夜空を衝き上げる。
山車の屋台では諸肌ぬぎになった青年たちが力任せの太鼓を打ち、屋台の上部では「線取り」の高校生たちが線取り棒を突き立てて拍子をとりながら踊っている。約二時間、山車行列の最大で最後の見せ場の「立て山」で祭り囃子が続き、熱狂のさなかに祭りの終了が告げられる。
祭り囃子
1845年、松宝丸の寄付者である近江商人は京都から祇園囃子の囃子方を招いて、地域の人々に習得させたと伝えられており、長い歴史の中で多少アレンジされてはいるものの、その優雅さや格調の高さは北海道では類をみない。
巡行する際は「行き山」、神社前などで奉納する「立て山」、巡行が終わり宿に帰る時には「かえり山」と各山車毎に3つの囃子を持ち、13台で計39曲もの囃子が存在することになる。
祭りに携わる人々には3日間の祭りが終わっても、しばらくの間は彼らの耳から笛、太鼓の音が離れないといわれている。
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